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ウェンブリー・ウィザード(
1930年代 スコットランド代表 ) |
"小兵の軍団"と呼ばれていたスコットランドはチーム一の長身選手のアレックス・ジャクソンでも5フィート7インチ(約170cm)だった。前線を率いるは、挑発に乗りやすく、度々酔って試合に出る事もあった問題児だが、才能は本物だったヒューイ・ガラハー。
インサイドレフトは1929年にアーセナルに移り、後に指導者になったアレックス・ジェームズ。 レフトウイングで彼のパートナーだったのは俊足の"ウィー・ブルー・デビル"ことアラン・モートン。彼の完璧なボールコントロールは、自宅にあった石炭小屋の壁の穴に、テニスボールを蹴り入れる練習をして磨いたのだ。
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マジック・マジャール(
1950年代 ハンガリー代表 ) |
マジック・マジャールとは「魔法のハンガリー人」の意。
右ウイングのブダイ、右インナーのコチシュ、CFのヒデクチ、左インナーのプスカシュ、左ウイングのチボール、ハーフのボジク、GKのグロシチと一流選手が集まったドリームチームであった。
1950年6月対ポーランド戦が不敗神話の始まりであり"マジック・マジャール"の誕生だった。以来、1954年スイスワールドカップ決勝西ドイツに3−2の逆転優勝をされるまで神話が崩れる事はなかった。そして、1956年マジック・マジャールの魔法を解いたのは、西ドイツでもイタリアでもなくハンガリー動乱だった。この動乱で多くの選手が母国に戻るのを拒否した。夢のチームを破ったのは国際情勢だったのだ。1992年の欧州選手権のユーゴスラビアと重なってしまうのは悲しいことなのだろうか。
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ブンダーチーム(
1930年代 オーストリア代表 ) |
ブンダーとは「驚異の」という意。1932年5月〜1934年5月までの2年間、国際試合を27試合して、負けたのは2回だけだった。「白バレー団」とも呼ばれていた
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グランデ・トリノ(
1940年代 トリノ ) |
トリノは、第2次世界大戦を挟み5回リーグ優勝を成し遂げた。中核は主将のマッツォーラとロイクで、当時最強と謳われたハンガリーを3−2で倒した1947年のイタリア代表に10人もの選手を送りこんでいた。だが、当時最強を誇り「グランデ(偉大な)・トリノ」と呼ばれたFCトリノのメンバーを乗せた飛行機が1949年5月4日俗に言う"スペルガの悲劇"と呼ばれる飛行機事故で18人の選手が亡くなってしまった。ポルトガルのベンフィカとの親善試合の帰りに、トリノを見下ろすスペルガの丘に墜落、18人の乗員、乗客全員が死亡した。
その中には、後にイタリア代表とインテルで一時代を築くサンドロ・マッツォーラの父親で、自身もイタリア・サッカー史に残るミッドフィルダーであったバレンティノ・マッツォーラ、そのバレンティノと絶妙のコンビネーションを見せたエンツォ・ロイクといった当時のスーパースターも含まれた。
トリノは、この事故の前シーズンまでイタリア・リーグ4連覇を果たし、とくに47−48シーズンは他の追随を許さない圧倒的な強さで優勝、さらにこのシーズンも5月の段階で5連覇を確実にしていた。当時のイタリア代表の試合で、フィールドに立つ11人のうち10人がトリノのメンバーということがあったくらい、優秀なメンバーをそろえ、その実力は飛びぬけていた。それだけに、この事故のショックはトリノだけでなく、イタリア全土に大きな悲しみを与えた。
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ミュンヘンの悲劇からの再興(
1958−1968 マンチェスターU ) |
1958年マンチェスター・ユナイテッドの飛行機事故があった。欧州チャンピオンズカップ準々決勝のレッドスター・ベオグラード戦、アウェーゲームを戦ったマンチェスター・ユナイテッドの選手たちは、帰路途中給油のために立ち寄ったミュンヘンの空港で、離陸に失敗した飛行機事故のために、選手、ジャーナリストなど、23人が死亡。当時21歳で将来イングランド代表の中心選手と期待されていたダンカン・エドワーズなど、レギュラーの7人が含まれていた。
それでも、奇跡的に一命を取り止めたマット・バスビー監督とボビー・チャールトン、ビル・フォルケスらを軸に、若い才能が育ったチームは、ちょうど10年後に欧州チャンピオンズリーグ優勝を果たすことになる。
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| スペシャルサンクス |
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円盤人さん、フィーゴネスさん、ミランの魂さん、しゅうさん、おれんじさん、森下さん、サッカー馬鹿さん、ドクター博士さん |